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不可思議な「天皇寺」を再度訪れる (2015年) [宮城 仙台]

以前、このブログで大和町にある「天皇寺」について紹介しました。
(「「天皇寺」の不思議」http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2012-09-08
この時は、よく分からずにマンUの香川選手との関連のジョークでお茶を濁しました。(笑)

前回のブログで紹介しましたように「天皇」が付く地名は、全国に結構あるようです。しかし、天皇寺」というお寺は、全国にたった2つしかありません。崇徳天皇にゆかりのある四国の香川県と今回紹介する宮城県黒川郡です。

崇徳院は、保元の乱の咎を受け讃岐国に配流されました。配流先で、崇徳院は仏教に帰依し、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本を作り、戦死者の供養のために京の寺に納めて欲しいと朝廷に送りました。ところが、自らの血で書いたとも言われており、後白河院は「呪詛が込められている」と疑って受け取りを拒否しました。

これに激怒した崇徳院は自らの舌を噛み切って、その血で「日本国の大魔王となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き込み、爪や髪をのばし続けて夜叉のような姿になり、生きながら天狗になったとされます。そして、その呪いにより、朝廷の持っていた権力は、源頼朝の鎌倉幕府以降は武士のものになり、「皇を取って民とし民を皇となさん」が実現され、それが明治維新の大政奉還まで700年近く続くことになります。

南北朝時代、後醍醐天皇の建武の新政がうまく行かなかったのも、元をたどれば崇徳院の呪いが原因とも考えられます。そして、明治維新の時に明治天皇が真っ先に行ったのが、四国の讃岐に勅使を遣わして、崇徳院を京都にお戻り頂くことであり、院のために白峯神社を創建することでした。それくらい、崇徳院の呪いは強力だと考えられていたということですね。

それに比べて、宮城県黒川郡の天皇寺の方は天皇に関する言い伝えは、まったくありません。今回、新しい情報としては、天皇寺が建てられたのは江戸時代の初期で瑞巌寺と同時代に建築されたとのことです。また、天皇寺の庫裏は、伊達藩の藩主の宿として使われていたそうです。
この地方では有名なお寺ではあったのでしょうが、なぜ「天皇寺」という名称になったのかは、何も書いていません。このお寺に宿泊された伊達藩主の方々は畏れ多い名前だとは思わなかったのでしょうか? お寺の資料を見ても、「天皇寺」という名前ありきで書かれていて、「何故、天皇寺という名称なのか?」という視点が全くないのが不思議です。

天皇寺の入り口です。
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伊達宗清(伊達政宗の三男)の墓所があります。
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臨済宗のお寺です。
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お寺の奥にある墓所です。
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山門は補修中でした。
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本堂です。
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天皇寺から約25Km離れた場所にある、天皇を中心とした朝廷の出先機関であった多賀城の城址です。建物は残っていません。小高い丘陵の上に建てられていました。
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階段跡から考えてもかなり大きな建物だったことが分かります。前九年の役、後三年の役では、源頼義、八幡太郎義家親子、南北朝時代には、北畠親房・北畠顕家親子が拠点としました。
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政庁跡の模型です。
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南門の跡から本殿側を見たものです。
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崇徳上皇の呪いがなく、ずっと貴族の政治が続いていたとすると、この多賀城が東北の中心となっていたでしょうから、どう考えても「天皇寺」というお寺は存在しなかったと思われます。

いろいろと考えましたが、天皇にゆかりのない「天皇寺」の名称は、やはり不可思議です。現地に行くと誰もその名称を疑問に思っていないように思えるのが、とっても不思議です。(笑)
どなたかご存知の方はぜひ情報をください。

このブログの目次です。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1

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